2014年10月11日土曜日

ロシアの歴史③帝国主義ロシアとロシア革命

◇前回はエカチェリーナ2世の治世までお話しましたが、エカチェリーナの死から10年もたたないアレクサンドル1世のときに、ロシアは強敵を迎えることとなります。それはフランスのナポレオン。オーストリアとともに、アウステルリッツの戦いで迎え撃ちますが、結果は敗北。ナポレオンはモスクワまでも支配しようとロシアの奥深くまで侵入してきました。ここでアレクサンドル1世は思い切った作戦をとりました。首都モスクワを「空き家」にして、ナポレオンにわざと占領させ、夜に乗じてモスクワに火を放ってナポレオンを火攻めにします。退却を余儀なくされたナポレオンはやがてロシアの冬に負け、全面的に撤退をします。61万人の兵力で始まったナポレオンのモスクワ遠征は、フランスに帰国した時にはわずか5000人にまで減っていたという、アレクサンドル1世の完全勝利に終わりました。

◇その次の皇帝はニコライ2世です。ロシアという国の特徴のひとつに「寒い国」ということが挙げられます。

ロシアの歴史②ツァーリたちの時代

◇前回、ロシアは100年余りモンゴル人の支配をうけたことをお話ししましたが、今回はそのあとのロシアのお話をします。衰退したキプチャク=ハン国から離脱し、再びスラヴ系の国に戻したのが「モスクワ大公国」と言われる国です。このイヴァン3世という人物が「ツァーリ」というロシア皇帝の称号を用い始めるのですが、「カエサル」というローマ皇帝の称号が「ツァーリ」と発音を変え、東ローマ帝国に伝わり、それがロシアに伝わったのです。

◇その次が「イヴァン4世」という人物です。この人物が皇帝に即位したときに同時に「ツァーリ」と名乗ったことにより、ツァーリはロシア皇帝の正式な称号となります。このイヴァン4世は「雷帝」というこわーいニックネームを持つのですが、現在は世界遺産になっている聖ワシーリー聖堂という教会を作らせた際、その建築家に「このような美しい教会を再び(ほかの誰かのために)作らせないようにお前の目をつぶそう」といってその目をつぶしたとか。やはりこわーい皇帝であったようです。また、イヴァン4世のとき、コサック民族の首長、イェルマークという人物がシベリアを占領し、それをイヴァン4世に献上したことからロシアの東への拡大が始まります。

◇イヴァン4世の死後、急速にモスクワ大公国は衰え、血統も途絶えてしまいます。貴族たちは話し合いによって空席のツァーリにミハイル=ロマノフを選びます。これがいわゆるロシア帝国の王家である「ロマノフ朝」の始まりです。

◇ロマノフ朝の王としてまず第一に挙げられるのはこのピョートル1世、「大帝」というニックネームは伊達ではなく、この王の身長は2m以上あったといいます。この皇帝、ロシアの技術力の遅れを悟り、自ら西欧諸国を視察して回り(身分を隠してオランダの造船所に弟子入りしたこともあったようです)、ロシアの近代化に尽くしました。スウェーデンを破り、シベリアの領地を拡大して中国の王朝と接触するなど、業績は書ききれないほどです。首都としてペテルブルクを建設しています。

◇ピョートルの死後、役40年後に登場した皇帝がエカチェリーナ2世です。この女帝はドイツから嫁いできた女性が、夫のロシア皇帝ピョートル3世を一説には愛人に毒殺させて皇帝になった人物です。愛人も200人いたといううわさもあります。こう言うと鬼のような女だな、と思われるかもしれませんが、知性あふれる魅力ある女性だったようで、愛人の多さも交友関係の広さも、魅力の一部ととらえることができると思います。この皇帝、業績としてはポーランドをプロイセン王、オーストリア王を誘って分割したり、武装中立同盟でアメリカの独立をアシストしたり、日本にラクスマンという人物を派遣して通商を求めたりと、大きな仕事をこなしています。

ロシアの歴史①ロシアの「もと」ができるまで

◇ロシアってどんな国?というと、多くの人が「広い国」「寒い国」のどちらかをいうと思います。そのとおり、広大な国土と、寒冷な気候を特徴に持つ国ですが、その巨大な国土は時にはお荷物になりながらも、周囲の国に影響を与え、また与えられるという「何かとまわりに影響する」という特性を持っています。そのため、この国には癖があっても強力なリーダーシップをもつ人物が求められたのでしょう。そんなロシアを今回から4回にわたってとりあげます。

◇まずはロシア人のもと、ロシアに住んださまざまな民族を紹介しましょう。ジュースの成分のように、さまざまな民族がロシアの地に住み、混血し合ってロシア人ができていると考えてください。

◇まずは、南ロシアに様々な民族がやってきました。(大まかにロシアを3つの地域で考えるとわかりやすいかもしれません。シベリア・ヨーロッパロシア・(ヨーロッパロシアとされるが)南ロシア)この南ロシアは広大な平原が広がり、民族の十字路となっています。
まずは「スキタイ」と呼ばれる民族。この民族は遊牧民族のルーツとされるもので、金細工の装飾品として知られています。次にゲルマン人の一派、東ゴート人、さらにはそのゲルマン人を駆逐しながら移動したフン人、そして東からロシア人の「主成分」であるスラヴ人が移動してきます。

◇そうこうしているうちに9世紀、ノルマン人(ヴァイキング)の一派がロシアに初めての「国家」を作ります。その国の名前は「ノヴゴロド国」、建国者はリューリクといいます。現在のサンクトぺテルブルクのあたりに都のノヴゴロドがありました。ヴァイキングたちが建てた国ではありますが、主成分のスラヴ人が多数を占めていたので、ノルマン人たちはスラヴ人と混血され、「ほとんどスラヴ人」という感じになりました。


◇そうしてノヴゴロド国がスラヴ化した国家の名を「キエフ公国」といいます。統治する人物はリューリクの一族ですが、都を南ロシアに移し、スラヴ人の国となります。最盛期は10世紀末、ウラディミル1世の時代で、キリスト教の中でもギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化、すなわち東ヨーロッパの国家のスタイルになります。

◇12世紀末にはこのキエフ公国は衰退してしまうのですが、この衰退につけ込み、一気にキエフ公国を滅ぼしたのがモンゴル人、チンギスハンの孫バトゥという人物です。スラヴ系のロシア人は100年余り、モンゴル人の建国したキプチャク=ハン国の支配下におかれ、この時代を「タタールのくびき」といいます。




2014年3月21日金曜日

万国歴史館にようこそ!

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